昭和41年09月30日 朝の御理解
不浄けがれは、わが心で払うこともあり受けることもあり。不浄があっては神様にお受けいただくことも出来ない。不浄、けがれと言うものは、あっては、神様が、お受けくださらない。けれどもその不浄けがれでと言うのも、自分の心一つでそれを払う事も、それをれを受けることにもなるのです。例えばここに汚いものが付いておる野菜なら野菜があると致しましょう。それをやはり濁った水で洗っても、それは綺麗になったとは言えません。ね。払うたとは言えません。そうでございましょうが。
これはね一つのおかげを受けていくための、信心の、一つの機微のようなものです。実に、微妙な事なんですよ。ですから信心させて頂くは、そこを一つの心がけとしてです。あのそこんところを分かっておかんと、信心が進められんのです。ね。ですから本当にここんところを、分かっておかなければいけないと思います不浄、けがれは神様がお嫌いになるもの。ね。特にこれをあの神道ですね、小神道又は神道辺りでは、この不浄けがれという事を、もう非常にその忌み嫌うわけですね。
例えば赤不浄の時なんかは、その、お宮さんなんかの鳥居は、くぐったらいけないものだと。いやもう、そんなことがあると、その、怪我する様な事があると。神の怒りを買うわけですね。勿論、黒不浄の時なんかは、もう、その、例えば、仏教でいや、四十九日でしょうね。まぁ、九日と言う、その日が開けなければ、高神さんなんかには参られないと、とされております。
けれども教祖の神様は、そのそう言う様な事は、不浄とは教えておられない様でございますね。けれどもわが心にそれを不浄と感じる時に、自分の体が今汚れておると言った様な時に、それを平気な心でという事はいけない。ね。そういう時に断りおいて、願いあることを頼めとこう仰っておられます。自分の心に引っかかる時には、ね。どうも私の身体が汚れております。どうも自分の心の上にこれが引っかかっておりますという時にはです。その事を詫びていく。
先ずその先にお詫びをさせて頂いて、願いある事頼めとこうおっしゃりますね。例えば自分に、現在ほんなら女の方であるなら。月のものなら月のものがあっておると言う様な時きに、ね。自分の身体の、今穢れておるからというて、神様にもお参りが出来ないと言った様ないわば考え。そうい事ではないと教えておられます。ね。家の中に例えばほんなら、不幸がありまして、ね。誰か亡くなられたりした時にはそら、まぁだ神様の前に出るのは恐れ多い。
だから遠慮申し上げたいというたんでは、御道の信心は信心にならんのです。むしろ。ね。それでもやはり人間ですから、長い日本人の一つのそうした習慣と言うか、そういう思い方と言った様なものがありますから、やはり自分の心に引っ掛るものがある。そういう時には先に断りおいてとこう仰います。ね。先に断りおいて願あることを頼めとこう仰います。次に今日私が申しております。不浄けがれはわが心で受ける事にもなりゃ、払う事にもなるのでございますから。
そのわが心と言うのは、どういう心で払うのか。ここに一つ汚れたお野菜をお供えしようと思うけれど、ね。そなえお野菜清らかなお水で、何回も何回も洗うたり愈ゆすいだり致しまして、お供えをすれば、そのお野菜ならお野菜が、清まる事になりますでしょう。ところがそのお野菜を洗います。その汚いものが付いている、その何かをですたいね。そらお野菜に限った事はありませんけれども、それを洗うに致しましても、やはり濁った水なら濁った水で洗ったんじゃ、何時までたっても。
それは清まったという事は言えないでしょう。ね。そこで私共が、如何に清い心美しい心でなからなければ、払うことが出来ないかという事が分かりますですね。その美しい心を真心とこう申します。ね。我情のない我欲のない心とこう申します。ね。そういう心で、それを洗います時に払います時に、不浄けがれ。今日はここにある大体四神様、二代金光様はね、この不浄という事を、この願っておることが成就しないことが不浄じゃと仰っておられますですね。
だからそこんとこは、ちょっと見解をちょっと変えてお話申しておるわけですね。皆さんが色々お願い事をなさいますでしょう。それが成就しないでしょうその事が不浄だと仰います。その事が神様が一番お嫌いになるのだと。願った事が成就しなければ駄目だと。ね。何故その不浄をお嫌いになるかと言うと。氏子の心が改まらんから、やはりおかげを受けられないのですから、神様はやっぱ一番お嫌いになるのですよね。
お願いしておかげを受けられんという事は、そのおかげの受けられんという事が、神様がお嫌いなのですよね。そういう事を不浄と。いわゆるなぁなぁと書いてある。不浄とは。ね。けれども今日私が申しておりますのは、その皆んなが申します。赤不浄とか黒不浄とかと言った様な意味合いにおいてでもです。ね。例えばこれを神様に申し上げたいとか。神様にお供えしたいとかと言うても、不浄けがれがあったんでは神様がお受けにならん。いや自分の心がとがめるというわけです。
そのとがめる心ではいけないと。そこへ私共の心のなかに、やはりそれが引っ掛りますから。今日は身体が汚れておりますと、ね。こう言う様な事で、やはりその不浄が不浄として、自分の心のなかに引っ掛っておりますから、そういう時には先に断りおいて、願いある事を頼めとこう仰る。ね。だからそれを平気になったんでは、やはり神様に対してご無礼だと思いますね。もう、この神様は、不浄、けがれは嫌いなさらんから、と言うのは、私は少し横着になると思いますね。
先日こんな事がございました。あるところへお葬式に参りました。勿論私がそのお葬式を仕えたんです。大変まぁ盛大なお葬式でございました。それでお礼に出て見えたのは良かったんですけれど。色々その椛目はお宅祭りなんかに参りますと、ね。その神様にお供えさせて頂いたものは、もうその年に一遍ぐらい本気で一つ、美しゅうなろうじゃないか。美しゅうならせて頂こうという、もう印をです。御神前にお供えした物を全部、お供えをなさいます。一遍神様にお供えしたものじゃあるけれども。
その美しい心でそれを払うわけです。ですから私はまたそれを、神様にお供えするんです。こらもう椛目だけじゃなかろうかと思いますね。他所辺りでは宅祭りを仕えられても、そんな事はないです。椛目では、これをもう神様にお供えしたものは、もう全部それこそお供えなさいますですね。けども本当に年に一遍の、宅祭りなら宅祭りを仕えるのでございますから、ね。
一遍ぐらいまぁどの一つにでも不浄掛けちゃならん。惜しげを掛けちゃならんと言う様な、その生き方がこらもう、椛目始まって以来、あのそういう事をそういう風になさいます。ね。これいっちょぐらい貰うたっちゃ良かろう。もうそれで不浄になるです。折角の有難い宅祭りがもう崩れる。私はそう思う。そうせんならんと言うだけじゃないけれども、そういう一つのあり方と言うのが、椛目にはあるんです。だからこれは本当に、有難いことだと思いますですね。
そら宅祭りに沢山のお供えが来ますよ。けれどもそれは例えていうならば、ほんならここに原さんなら原さんと言う方が、お宅祭りを仕えられます。ね。そりゃ原さんに集まってくるのじゃなくて、神様に集まって来たのですから、もうそれを私視しない。せめてお宅祭りの時だけぐらいは、神様の御物として神様のとこへ全部お返しするのが本当なんだと。いわゆるそこから還元されるというのが、あるわけなんですね。
昔のお百姓さん、篤農の方達が言われました。ね。例えば稲なら稲を作ります、ね。実だけは頂きましてもです。その皮の全部を大地に還元していくという訳なんです。大地に返していくち言う訳なんです。おかげだけは、おかげだけは頂いて、その形のお供えならお供えだけは、大地に神様に還元すると言う様な意味合いで、これは大変素晴らしいことだと思います。
椛目の皆さん宅祭りをなさる方の、いわゆるその心がけとして、椛目の一つのこれはもうそれが、そうせんならんものだという風に思い込んでおられますですね。椛目の皆さんが。それは有難い。それにほんならこの珍しいお供えが来とるけん、これだけいっちょ貰うとこと言うたら、もうそしたら不浄になるです。もうそれはご無礼だ。他のもんまでご無礼だ。ね。もうその時だけは欲も得も無くして、神様へ還元して行こうと言う生き方。そこから還元作用ですね。大地に帰していく。
そこに次のこのおかげと言うのが、また展開してくるわけなのです。そういうその習慣があるもんですからね。やはりそのお葬式を仕えたときでも、そのお葬式にそれを、その私が注意しなかったものですから。やっぱりそのこれはお供えしてあったという、こらまた大変、そのまぁいろんな事になりますけれどもね。あの御霊様にお供え致しますね。これはあの仏教なんかでは、あのそこんとこをはっきりしておりますですね。
例えばお盆ならお盆にですね、色んなお供えなんか致しますでしょう。仏様に。そして必ず横手に餓鬼どんのと言うのがしてある。中々行き届いた事ですね。仏教の生き方と言うのは。でないとそのいわゆる、沢山の亡者達がですね。餓鬼道に落ちておる人達が、もう仏様にお供えしとるとまで手を掛けると言う事なんです。それで横手にわざわざ、こら餓鬼どんのと言うて別にお膳を作って、私の婆達はそうしよりました。だから仏教にあぁいう行き方があると私は思うて、まぁ感心するんですけれどもね。
それと同じ様な意味合いにおいてです。ね。やっぱりありますです。ね。特に生々しいですね、例えばそのお葬式という様な時には、もうそれがある。ですからもうお榊とか、玉串なんかは、特にその焼き捨てて出しますですね。もう特に御霊様にお供えをした、お水とかお茶とかは頂けないものだと、私共も教えられて参りました。ところがそのその時にですね。その私がそれに知っておったんです。これは神様のお供えじゃなかと、と言う沢山来ておるお供えの中からですね。
サイダーが一ダース箱入りの、化粧箱入りが来ておりました。私それを思うですね。もう私はその滅多に、神饌室に入らんものですから、何日かして私ちょっと、神饌室さん入ったら、そこからその人のサイダーが来てるんです。あらこらあんた二三日前、あそこから来とるのじゃないかと言うたら、そうですと。それで私はもうそれこそ、もう私は今日は、そんなですもんですからね。もう神饌室中をお掃除し直しました。
そしてこげなもんな捨ててしまいなさいち、もう喧しゅういうちから、そしたらもう、どげんしますかち、久富先生が言われます。もうとにかく掃き直ししなさい。言うならですね。まぁそれはほんなら餓鬼道の人達が、それに手をかけたと言った様なものじゃ無くてです。家中の悲しみがその中にあるのだと、私は言うのです。ね。それでもうその神饌室の戸はどこにあったか知りませんけど、その通りにです、あの勝手の隅の方にそれがございますもん。
まぁだそんなとこにこんなんば置いてからと、言うておったんですけども、私の気持ちも段々薄らいで参りました。ね。それで、久富先生があの、昨日の生誕祭のあの、福引を作ります時に、この福引にするのは良かろうという訳でその、出してござる。だぁれもそれは知りません。もう丁度手ごろです一番。一ダースの三ツ矢サイダーですよね。サイダーの入った化粧箱ですから、景品には一番適当なものでしょうが。
一ダースのサイダーが入っておるものですから、ところが私は皆んなそこに、久富先生が出してやっておられる、その景品になるお下がりの中からですね。その一点だけがどうしても、あの余ってくるわけなんです。と言うて私は久富先生、ちょっとこらいかんのぅち言うてから、下げました。ね。やっぱそういう不浄の掛っておるものがです。やっぱり神様も言うなら、お年寄り達に、それをあげるという事は、しちゃいけんのだろうとと言うて又とうとう、久富先生引っ込めてしまわれました。
番号などつけてから合図しましたけれども、この一つはいよいよ四という様にです。どうしてもそのなかに入れないのです。皆があそこへあの十何名でやっておりましたけれど。ね。それで私は、その事をあのその日は私二時ごろまで起きて、生誕祭のお祭りの心の準備をさせて頂きましたから。お供えのことから何から、ここにお届けさせて頂いてから、神様にお礼を申させて頂いた時に、そのサイダーのことを頂くと同時に、私の心のなかに、今朝私が皆さんにお話申しておりますことを頂くんですよ。
不浄けがれはわが心で、ね。払うこともありゃまた受けることもある。というてその霊神様にお供えをした、お榊は使わないものだというのをですね。私が清らかな清らかな水で、何回も何回もこう、ゆすいでおるところを頂きました。だから皆さん、それをそるきんてそのままになさったらいかんですよ。ね。霊神様にお供えしたものをです、ね。清らかな水で濯ぎさえすりゃ、またお供えち言う意味じゃないです。これは大坪総一郎、お前の最高の心を持って、私が清い心と言う訳じゃないけれど。
お前の最高の心をもって、折角氏子が真心あればこそ、持って来とるのでございますから。お前の最高のいわば美しい心で、これを祓い清めてお供えすることですから、もうその私が一番忌み嫌っておった、五十日間をいわば捨てていけと言うて、捨てさせておった、そのサイダーを昨日生誕祭にお供えしておりますもん。しかしもう大英断ですね。だから私、久保山先生気付かれたかどうか知らんけど、久保山先生はびっくりされた事と思う。あらほらもう五十日前に来とったろうがの。
あのサイダーばお供えせんのち、私が申しました。もう私は前の晩に自分の心で、祓い清めておるわけなのです。ですから私の心にしろ、ただそのそれをお供えなさった人の真心だけを、向こうでお供えしとる訳なんです。しかし大変な事ですねこの事は。こういう事は。もう信心させて頂く、さっき私が申します機微に実に微妙なこと。あぁあれはあそこの葬式のとこから来たっじゃろうたい。
もうあげなもんば一番、今日はお目出度いという、教祖の神様のご生誕のお祭りにお供えしてから、あぁあげなもんがあるなら、今日はお祭り出来んと、私がその前の日だったら、思うたですね。けど神様からその事を頂いて、なら私の最高の心と言う、その心をもって、洗い清めさせて頂いておるから、もう向こうに捨ててあるようにしてあった奴を、また持ってきてから、久保山先生あれを今日の生誕祭にお供えさせて頂きなさいと言うて、それを、新たなものとしてです。お供えする事が出来た。ね。
皆さん、神様へそのお供えをなさるという事は、ね。本当にどこにお粗末がご無礼があるやら分かりません。どこに不浄けがれがあるか分かりませんけども、そこを先ず、先に断りおいて願いあることを頼めと仰るように、先ず断り置いてお供えをするとか。また私の最高の心、ね。皆さんのこれは不浄じゃない。これは自分ながら美しい心と言う心をもってです、それを一遍洗い清めてから、お供えをするということが、そのままスムーズに神様がお受け下さるという事になるのです。
不浄汚れはわが心で払うこともありゃ、その不浄汚れを又受ける事にもなる。ね。不浄汚れのある時には、先ず先に断りおいて願いあることを頼めとこう仰る、ね。不浄と心の中に思うておっても、はぁ自分の身体が汚れておると思うておっても、ね。よかよかでは横着です。ですから先に断りおくと言う事、ね。また自分のこんな自分の、最高の綺麗な心という心でです。それをいわば清めさせて頂く様な気持ちで、お願いをしたりそれを神前に進めたりしなければならないと、だとこう思うですね。
どうぞ。